2010年01月10日
235~236 クライスラー~ラロ
235 クライスラ- ヴァイオリンのための小品集
これはもう、パ-ルマンとサンダ-スによる盤だ(1975~78年。EMI)。LPで3枚になっていたが、CDではどうだろうか。まずもって「第1集」というやつを買っておけば問題なかろう。個々の曲に愛着があれば収録されている盤をもとめればよい。ひとによってはクライスラ-の自作自演盤(1924~29年のラムソンとのRCA盤と1926~38年のルップとのEMI盤の2種がある)をとるようだが、いかに本場ものの強みを主張されても、これだけ雑音だらけの古い録音では良いも悪いもない、とわたしは思う。
236 ラロ スペイン交響曲 Op.21
この曲は学生時代から好きで、けっこういろいろ聴いた。グリュミオ-とロザンタ-ル/コンセ-ル・ラムル-o.の1963年の録音(フィリップス)にとどめをさす。同じグリュミオ-がフルネ/コンセ-ル・ラムル-o.と組んだ1956年の盤はなにさま音がよくない(こういう曲については録音のよしあしは大きい)。5楽章の全曲版かどうかを気にするむきもあるようだが、わたしにはシュ-マンの「謝肉祭」で「スフィンクス」を弾くかどうかと同程度の、瑣末な問題におもわれる。
ちょっと休憩。
この『コクマルガラスの名曲名盤500選』をお読みになっておられるかたのなかには「コクマルガラスはどうして録音が古い盤をそんなに毛嫌いするのだろう」とお思いの方もおられるだろう。なにを隠そう、はるか30年以上昔の学生時代にわたしはなんとかして廉価でLPをもとめるためもっぱらモノラル録音の古い盤を漁っていた。録音がすこしくらい悪いくらいがなんだ。きちんと聴けばいい演奏からは感動を得られる。第一録音がわるいのに販売されているのは演奏がいいからじゃないか。
20代後半に入るとドナルド・キ-ン氏の著作に出会うという事件もあった。キ-ン氏の「1930年代のメトロポリタン歌劇場はすごかった」という文章に接して文章にきら星のように登場する歌手の名前に目をこらし、それらの歌手の声をなんとか聴きたいと思った。
そして野村あらえびす氏の『あらえびすの名曲決定盤』が、この「1930年代の録音盤めぐり」に拍車をかけた。「ホロヴィッツというピアニストはまだ若いが将来に期待がもてる」などという文章はたまらなくわたしの懐古趣味を刺激したものだ。
そんな具合に30代はすぎて、40の声をきくようになると「一体なにをやってきたのだろう」と思う日が増えた。わたしは50をすぎた現在でも、20代から30代いっぱいまでの20年間、自分が不必要なLPやCDをきいてきたと思ったことはない。だが40をすぎて、自分が若かった頃に「古い録音こそ交換不可能な名盤也」という「荷物」を背負ってきたことへの疑問が生じてきた。たしかにそういう名盤も存在する。それはきいた方がよい。だが、なにからなにまでそんなにムキにならずともいいのではないか?
すごく面白くきける「往年の名盤」というものはたしかに存在する。どこかでそれを紹介するときもくると思う。だが、わたしとしてもことのはじまりは「貧乏」だった。いま現在、21世紀の平成時代において貧ゆえに録音のわるいCDをきかなければ教養を蓄えられない若者がどれだけいるだろう? そして、ある作曲家のある曲が、どうしても代替不可能な状況で悪い録音の盤できかなければ「わからない」ということがどれだけあるだろう?
そうした塩梅で「録音がわるいから、はずす」ということになっているのです、はい。