2010年01月12日
246~250 マーラー
246 マ-ラ- 交響曲第1番ニ長調「巨人」
マ-ラ-についてはブルックナ-とちがい「全部この指揮者で良い」という決め方ができない。それにはいろいろな要素が絡んでくる。交響曲9曲のうち4曲に声楽が入ってくることもそうした要素のひとつであるし、1曲ごとの「性格分け」がひとりの指揮者とひとつのオ-ケストラでは難しいということもある。
ジュリ-ニ/CSOによる演奏(1971年。EMI)を選ぶ。1970年代、シカゴ交響楽団はショルティの下で次々とマ-ラ-の名演を生み出すが、それと拮抗するかのようにこの名盤が生まれていることは驚きだ。ジュリ-ニの棒の下でマ-ラ-は「ひとつの大きな完結した世界」を造形せられる。この「大きさ」は破格であり、そのことがジュリ-ニが振ったもうひとつのマ-ラ-:交響曲第9番できわめて興味深く生かされることになる。
247 マ-ラ- 交響曲第2番ハ短調「復活」
この曲には決定盤が存在する。メ-タ/VPO盤がそれだ(1975年。ロンドン)。ウィ-ン・フィルなんて、たまにしか名演を残さないが、これはその「たま」である。合唱を受け持つのはむろんウィ-ン国立歌劇場合唱団であるが、その威力がすごい。終楽章の中盤でベ-スがDを要求される部分があるが、その部分だけとってもこの盤にせまることのできる演奏は、ほとんどない。女声がコトルバス(S)とル-トヴィヒ(Ms)であるのも強みである。
248 マ-ラ- 交響曲第3番ニ短調
この曲には決定的な盤がいまのところ、ない。曲そのもののすこし散漫になりやすい性格にも責任がある。バ-ンスタイン/NYPの勢いのある演奏(1961年。ソニ-)を挙げておく。アバドもショルティもメ-タもダメであった。
249 マ-ラ- 交響曲第4番ト長調
終楽章のソプラノが美しいかどうかも大きな問題だが、楽章間の屈折した対比がうまくいっているかどうかによって成否がわかれる。わたしはバ-ンスタイン/NYPの盤(1960年。ソニ-。ソプラノはレリ・グリスト)が好きだ。ヴィヴラ-トのすくないグリストの清楚な声が曲にぴったりだと思う。バ-ンスタインは新盤でボ-イ・ソプラノを起用したりしてみたが旧盤の美しさにはおよばなかった。
250 マ-ラ- 交響曲第5番ハ短調
人気のある曲だ。この曲にかんするかぎりショルティ/CSOの1970年の録音以外に考えられない(デッカ)。シカゴ交響楽団の金管セクションの素晴らしさを思い知らされる盤でもある。最初のCD化の時点では終楽章の圧倒的なコ-ダの部分-ホルンのファンファ-レがあるところ-でリミッタ-がかかったように音量がポンと小さくなる録音技術上のミスがあったが、2008年にもとめた盤では改善されていた。第4楽章のアダ-ジェットの美しさも比類がない。