2009年12月25日
136~146 ブリテン~ショーソン
136 ブリテン 青少年のための管弦楽入門 Op.34
中学校の音楽の教材などにしばしば用いられていた曲だが、いまどきの中学生はこうした「入門用」のクラシックをきくのだろうか。サン=サ-ンスの「動物の謝肉祭」などと違ってブリテンは一流の音楽家であるから、もっといろいろな曲をきいてほしい(下敷きにしている『名曲名盤500』でブリテンの曲がこれだけなのは残念)。
語りが入るものとそうでないものがある。「別に解説してもらわずともどのセクションが鳴っているかは、わかるよ」と仰有るなかれ。プロコフィエフの「ピ-タ-と狼」と同じでいろいろな俳優が語りをやるのだ。古いところではマルケヴィチ盤で栗原小巻が入れたりしていたが、時代と共に差し換えられるから、いまはどうだろうか。
こうした「視覚的な」音楽を振らせるとうまいのがプレヴィンだ(LSOとの1973年録音。EMI)。作曲者自身がLSOを振った盤(1963年。LSO。ロンドン)も良い演奏だが、ちょっと堅いかなという気もする。
137 ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調 Op.26
曲そのものはたいしたものではないが、演奏効果があがるので技巧派のヴァイオリニストがよく取り上げる。ハイフェッツの録音(サ-ジェント/新LSO。1962年。RCA)が、わたしの持つハイフェッツの盤のなかではいちばん効果的にやっている。ハイフェッツというヴァイオリニストは結局この曲であるとか「ツィゴイネルワイゼン」を弾く演奏家である。
138~144 ブルックナ- 交響曲第3~第9番
原本(『名曲名盤500』)では第3番から第9番までを1曲ずつ取り上げているが、わたしとしてはこの7曲についてはヴァント/北ドイツ放送o.による再現以外は考えられない(RCA)。ヴァントは晩年BPOに客演して4、5、7、8、9番の録音を残しており(RCA)、NDRとの録音が入手しにくい場合はまったく拮抗する内容なので補完されるとよい。録音、演奏のいずれをとってもヴァントの芸格におよぶ指揮者はいまのところ、いない。
各論としてざっと「他の名盤」を挙げておく。交響曲ヘ短調(第00番とも呼ばれる)と交響曲第0番はインバル/フランクフルト放送so.(テルデック)。第1番はヨッフム/BPO(1965年。グラモフォン)。第2番はヨッフム/バイエルン放送so.(1966年。グラモフォン)。第3番はインバル/フランクフルト放送so.(1982年。テルデック)。第4~6番は自席無し。第7番はカラヤン/BPO(1975年。グラモフォン)。第8~9番は自席無し。
ちょっと休憩。
ブルックナ-の交響曲のディスクを選んだ。ことブルックナ-となると、どうしてだか分からないがマニアックな人がおおい。わたしが学生のときはベ-ト-ヴェンについてトスカニ-ニがどうとか、フルトヴェングラ-がどうとかいう議論が激しかったが、それが現在ではブルックナ-に成り代わった感がある。
ブルックナ-・マニアの方々はやけに版の問題に詳しかったり、反復がどうとか一部省略がどうとか、ずいぶんテクストにうるさい。まあそれは30年前にベ-ト-ヴェンについても語られた感なきにしもあらずで、たしかにどこをどう演奏すればどう違ってくるかを論ずることは悪いことではない。
問題なのは、そのように演奏したから「精神性が」どうなるか、という論法がいまだに猖獗をきわめていることだ。30年前にも「トスカニ-ニの」「精神性」やら「フルヴェンの」「精神性」やら「クナの」「精神性」やらが喧しかった。
「いのちのかかったクレシェンド効果」とか「したたりおちる精神性」とか「人工性がなくなって表現が結晶化されたのは上出来だ」とか言っているひとたちよ。鬼面ひとを驚かす表現は、やめましょう。カルト教団の教祖みたいな立場でものを言うのは、やめてください。そして精神とは何であるのか、もっとよく考えましょう。よく考えているのであればわかるように言ってください。「わかる者にはわかるのだ」式の論旨では困ります。以上。
145 カントル-ヴ オ-ベルニュの歌
さまざまなソプラノ(声種はリリコが多い)が録音しているが、まずもってこの曲を名曲の殿堂入りさせたのはダヴラツの功績であろう(デ・ラ・ロ-シュ指揮。ヴァンガ-ド-キング)。「民謡の素朴さ」と「美声」の要素を両方併せ持つソプラノは、やはり彼女をおいて他にいない。
146 ショ-ソン 詩曲 Op.25
美しい音のヴァイオリニストと管弦楽でききたい曲だ。わたしはグリュミオ-盤(ロザンタ-ル/コンセ-ル・ラムル-o.1964年。フィリップス)を第一にとる。世評ではスタ-ンを推す人も多いようだが、五味康祐ではないがわたしはスタ-ンのヴァイオリンのどこがいいのか、わからない。