2009年12月28日
166~172 ドビュッシー
166 ドビュッシ- 牧神の午後への前奏曲
同様にマルティノン盤を推薦する(フランス国立放送o.。1973年。EMI)が、もうひとつモントゥ-盤も挙げておこう(LSO。1961年。ロンドン)。彼がいかに指揮の達人であったかよくわかる。
167 ドビュッシ- 夜想曲
同じくマルティノン盤(フランス国立放送o.。1973年。EMI)。
168 ドビュッシ- 弦楽四重奏曲ト短調 Op.10
ラヴェルの弦楽四重奏曲とカップリングされることが多い、というよりほとんどだ。片方がうまければだいたいもう片方もうまい。わたしはラサ-ルSQ、アルバン・ベルクSQの両方のディスクをきいて「これといって面白くもないなぁ」という気でいたのだが、パレナンSQの演奏(1969年。EMI)に接して「なるほど。これがニュアンスに富んだ演奏というものか」と得心がいった。もし温故知新の精神に燃えているかたがおられたら、カペ-SQの演奏(1927年。EMI)もお薦めしておく。雑音の彼方からむせるように濃厚な世界が出現する。時代感覚的にも表現主義よりもうひとつ前の、ロマン主義の再現にちかい(細かいことを言えばロマン派そのものではないのだがこの場合、表現のアヤとして混同してもかまうまい)。
169 ドビュッシ- ヴァイオリン・ソナタ
これはグリュミオ-、ハイデュの名演(1962年。フィリップス)をききたい。ティボ-とヌヴ-は録音が悪すぎる。新しい録音にデュメイがあるが、彼はフォレはいいのだがモ-ツァルトやドビュッシ-になると弾き崩しが耳につく。
170 ドビュッシ- フル-ト、ヴィオラとハ-プのためのソナタ
どのようなフル-ティストが好きかで選択が変わってくる。わたしはランパルの鼻息まじりの音がさして好きではないのだが、パスキエ、ラスキ-ヌと組んだエラ-トの盤(1962年)はさすがにいい演奏だ。ゴ-ルウェイよりはパユできいてみたい気持ちがあるのだが、まだきいていない。どのような再現になるだろうか。
171 ドビュッシ- 映像第1集、第2集
ベネディッティ=ミケランジェリの演奏がまさに冠絶している(1971年。グラモフォン)。カップリングされた「子供の領分」もベストなので選択に迷う必要がまったくない。
172 ドビュッシ- 前奏曲集第1巻、第2巻
これもベネディッティ=ミケランジェリの魔法のように美しい音を堪能したい。彼が晩年に第2巻を録音したとき友人と「ミケランジェリももう永くないだろうけど、ドビュッシ-の前奏曲の録音を完結させてくれてよかったなあ」と話したことを覚えている(1978、88年。グラモフォン)。
Posted by コクマルガラス at 15:16│Comments(2)│TrackBack(0)
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この記事へのコメント
毎度どうもです。
さて、ドビュッシーの管弦楽について、マルティノンで「何の不満もない」というのは私もまったく同意見です。また、「映像」や「前奏曲集」となると、どうしてもベネディッティ=ミケランジェリの名前を抜きにはできませんね。ただ、ずいぶんと間隔をおいて発売された前奏曲集第2巻に関しては、個人的には第1巻ほど感銘を受けなかったような記憶があります。なぜなのか、いまだによくわかりませんが、試聴前の期待感が大きすぎたのかもしれません。それに、批評家たちの「やっぱりこれでしょう」的な手放しの賛美にちっちゃな反発を覚えたのも事実です。
ただ、いずれにせよミケランジェリのドビュッシーというのはちょっと別格扱いしたほうがよいのでは、とも思ってしまいます。あれはピアノ演奏という範疇では語ることができません。ピアノという楽器を通してドビュッシーを表現しようとしている他の演奏家からすれば、「土俵が違う」というところではないでしょうか。
さて、ドビュッシーの管弦楽について、マルティノンで「何の不満もない」というのは私もまったく同意見です。また、「映像」や「前奏曲集」となると、どうしてもベネディッティ=ミケランジェリの名前を抜きにはできませんね。ただ、ずいぶんと間隔をおいて発売された前奏曲集第2巻に関しては、個人的には第1巻ほど感銘を受けなかったような記憶があります。なぜなのか、いまだによくわかりませんが、試聴前の期待感が大きすぎたのかもしれません。それに、批評家たちの「やっぱりこれでしょう」的な手放しの賛美にちっちゃな反発を覚えたのも事実です。
ただ、いずれにせよミケランジェリのドビュッシーというのはちょっと別格扱いしたほうがよいのでは、とも思ってしまいます。あれはピアノ演奏という範疇では語ることができません。ピアノという楽器を通してドビュッシーを表現しようとしている他の演奏家からすれば、「土俵が違う」というところではないでしょうか。
Posted by ばく at 2009年12月29日 10:27
コメントありがとうございます。実のところ「ドビュッシーの管弦楽曲の再現はマルティノンで充分」と書いたことには「〈牧神の午後への前奏曲〉についてだけは冒頭のフルートの音についてのこだわりを書いた方がよかったかな」と思い返していたところです。
ミケランジェリについての思い入れはばくさんとまったく同じようで嬉しく思っています。でもああした尖鋭な美しさはミケランジェリだけではなくベロフにもあった(過去形なのが残念。アルゲリッチなんかと関わらなければ無事だったのになあ)と思いますよ。そういえばああした「天才型」のピアニストがここ20年くらい出ていませんね。それにしてもミケランジェリはミケランジェリが正しいのだろうか、それともベネディッティ=ミケランジェリが正しいのだろうか。トモワ=シントウとかガリ-クルチとかフィッシャー=ディースカウとか、欧米の名前は難しいなあ。ダンディがなぜIで始まる苗字なのかもいまだによくわからない。嗚呼。
ミケランジェリについての思い入れはばくさんとまったく同じようで嬉しく思っています。でもああした尖鋭な美しさはミケランジェリだけではなくベロフにもあった(過去形なのが残念。アルゲリッチなんかと関わらなければ無事だったのになあ)と思いますよ。そういえばああした「天才型」のピアニストがここ20年くらい出ていませんね。それにしてもミケランジェリはミケランジェリが正しいのだろうか、それともベネディッティ=ミケランジェリが正しいのだろうか。トモワ=シントウとかガリ-クルチとかフィッシャー=ディースカウとか、欧米の名前は難しいなあ。ダンディがなぜIで始まる苗字なのかもいまだによくわからない。嗚呼。
Posted by コクマルガラス at 2009年12月29日 13:05